曽我 ひとみさん
平成17年5月12日、東京連続集会発言から要約
横田めぐみさんはすごく絵が上手で、一緒になって1か月くらいした頃、紙に鉛筆で手の形を描いてくれて。すごく上手で、私は日本に来るまでずっと大切にもってましたが、持ち帰れませんでした。歴史博物館とか革命博物館とか、いろんな博物館を一緒に観て回ったんですけど、めぐみさんは、美術博物館はもう一回行ってみたいなあと言ってました。招待所の中ですから、なかなか自由に外に出ていろんな所を見るっていうことができなくて。だから、一度外に出てそういうところを見る時は、面白くても面白くなくても、なんか開放感って言うんですかね。そういう時間が二人とも大好きでした。
朝、9時くらいから勉強を始めて。チュチェ思想等の勉強。それから日本との戦争の話がありましたけど、その時の英雄たちの活躍を紹介したような朝鮮語の本。そういう本をたくさん読んで、あなたたちもこういうふうにしなくちゃいけないんだよ、と教えられました。同じ招待所には、1か月とか3か月とか色々でした。その頃会ったのはめぐみさんだけです。時々思い出したり寂しくなったりすると童謡を歌いました。「ふるさと」も歌いました。双子の弟が本当にかわいくてたまらないって言っていました。
月や星を見ては佐渡を、日本を
向こうにいた24年間の間にも、日本から代表団がいっぱい来ました。もちろん私が直接会ったわけでもないですけど、テレビではどこの党の人が来たとか、どこを訪問しましたとか。今度は何か良い知らせがあるかなあと思うんですが、しかし、ああまた何にも無かったんだ、と。日本のなかでどういう運動があるのか、私たちには全然分からないし。ただただ、日本の代表団に会って「一緒に連れて帰ってください」と言いたいと思ったことは何度もありました。だけど、そうすることもできず、この次は、この次はと、ずっと我慢してきました。
夜になれば日本でも北朝鮮でも空には月や星。見るといつも佐渡が頭の中に浮かびました。そしてそれと同時に、お母さんのこと。いつも夜、月を見ながらいつになったら日本に帰れるんだろう、誰か助けに来てくれる人はいないんだろうかと、いつもいつも思っていました。だからまだ日本に帰って来れない人たちのことを思うと、本当に心が痛みます。私の母もそうです。もう73です。皆様のお力で、みなが日本に帰ってきて、笑顔で生活できるようにお願いしたいと思います。
『告白』ジェンキンス著から
横田めぐみさんと曽我ひとみさんは、拉致された当時、唯一の日本人の友達でした。ひとみさんの夫・ジェンキンスさんは『告白』の中で、ひとみさんから聞いた話として、「当時まだ15歳だっためぐみさんは、故郷のことをしきりに思い、泣いてばかりいた」と紹介しています。
曽我ひとみさん夫妻は、1985年か86年に、平壌の外貨ショップ楽園百貨店でめぐみさんに偶然出会っています。「めぐみさんはかがんで美花さん(当時2、3歳だった曽我さん夫妻の長女)をあやし始めた」と書いています。そして、美花さんをつれてクッキーを買いに行き、ひとみさんとめぐみさんを二人にしたことを次のように書いています。「二人にとってどれほど貴重で稀な機会であるか、私にはわかっていた」。それ以降、めぐみさんに会う機会もめぐみさんについて耳にする機会も一度もなかったとのことです。

