拉致はどのように行われたか-3

石岡 亨さん(22歳)

石岡 亨さん

1980年(昭和55年)5月頃拉致
 石岡亨さんは、当時日本大学農獣医学部の学生で、欧州滞在中に消息を絶っています。亨さんは、「パンやチーズの職人になるきっかけを見つけたい」と欧州旅行へ出ていました。昭和63年に、石岡さんからポーランド消印の手紙が家族宛に届きました。その手紙には、「事情あって有本恵子さん、松木薫さんと3人で平壌で暮らしている」と書かれていました。平壌市内でショッピング中にポーランド人に手紙を託したのです。どういう思いだったのでしょうか。失踪直前に、よど号ハイジャック犯の妻、若林佐喜子、森順子と一緒にバルセロナで撮影した写真が残っています。北朝鮮側の説明では、有本恵子さんと結婚し、娘がいるとのことです。3人とも欧州滞在中によど号ハイジャック犯の妻と北朝鮮工作員によって拉致されたものですが、金正日の指令があったとされます。よど号犯は約20人を拉致したと、彼らのリーダー故田宮高麿が語ったということです。

松木 薫さん(26歳)

松木 薫さん

1980年(昭和55年)5月頃拉致
 松木薫さんは、京都外語大学大学院でスペイン語を学び、スペインに留学中にマドリードで消息を絶っています。マドリードでは、よど号犯の妻、森順子・若林佐喜子が松木薫さんに接触しています。当時、マドリードに滞在していた日本人女性2名が、松木、石岡、森、若林の4人と親しくしており、やはり一緒にウィーンに行かないかと誘われ断っています。北朝鮮は2度に渡って松木さんの可能性が高いとする「遺骨」を提供していますが、いずれも別人のものでした。

原 敕晁さん(43歳)

原 敕晁

1980年(昭和55年)6月頃拉致
 原敕晁さんは、北朝鮮工作員辛光洙らによって宮崎県青島海岸から北朝鮮に拉致されました。辛光洙は、金正日から直接、「日本人を拉致し、北に連れてきて日本人の身元事項を完全に身につけ、日本人に完全変身した後、対日対南工作を引き続き遂行せよ」と命令されました(1985年6月29日付韓国安企部捜査発表資料)。辛は、日本潜入後に、大阪府在日朝鮮商工会の理事長だった李三俊に命じて、李が経営していた中華料理店コック原さんをだまして青島海岸まで連れて行きました。原さんとともに北に戻った辛は、再び日本に潜入し、原さんになりすましてパスポートなどを取得し、工作活動を続けました。辛光洙は、昭和60(1985)年、原さん名義のパスポートを持って韓国に入国し逮捕されましたが、平成11(1999)年12月31日恩赦で釈放され、翌年北朝鮮に帰国しました。北朝鮮に融和的な金大中大統領(当時)が南北首脳会談で、辛らを北に返すことを約束したからです。辛はその後、北朝鮮の英雄の一人として北朝鮮の切手にもなっています。日本政府は、テロ国家北朝鮮のなすがままで、国民の人権も、国の主権も守れなかったのです。

小住 健蔵さん(45歳ぐらい)

小住 健蔵さん

1980年(昭和55年)頃
 小住健蔵さんは、樺太で生まれ、樺太で中学校を終えて、昭和23年に引揚船で函館に帰ってきました。お母さんが亡くなった翌年、昭和36年に、青函連絡船に乗って東京に就職しました。小住さんが函館を出てから24年後の昭和60年のこと、北朝鮮の大物工作員朴某が日本に侵入し小住健蔵さんになりすましているということを警視庁が明らかにし、国際指名手配しました。朴は、小住健蔵の名前で自動車の運転免許とパスポートを正式に取って、日本人の女性をだまして同棲し、日本人となってスパイ活動をしていました。なお、小住さんがいつ北朝鮮に拉致されたのか、まだよく分かっていません。しかし、昭和55年4月に、小住さんの戸籍が函館から東京に移されています。小住さんの名前で、会社まで作り、多くの外国にも旅行しています。韓国にも行っています。朴某は在日出身で、関西弁がぺらぺらだったといいます。実はこの朴こそが1978年7月蓮池薫さん、奥土祐木子さんを拉致した犯人の崔スンチョルだったことが、平成18年に判明しています。

有本 恵子さん(23歳)

有本 恵子さん

1983年(昭和58年)7月頃
 有本さんは大学在学中に、ロンドンでの語学留学を終え、帰国する予定の当日実家に、「仕事が見つかる。帰国遅れる。恵子」という電報を送っています。その後、コペンハーゲンから手紙が届いたのを最後に音信が途絶えました。石岡亨さんが出した手紙から、有本さんが北朝鮮にいることが分かりました。この手紙には、恵子さんと石岡さんの間にできた子どもと推定される乳児の写真が添えられていました。有本さんの拉致については、よど号ハイジャック犯柴田泰弘の元妻八尾恵が犯人の一人でした。八尾は、「私が有本恵子さんをだまして北朝鮮に連れて行きました」と、平成14年4月に、東京地裁で証言しています。
 以上、政府・救う会認定の24人の拉致について述べてきましたが、平成18年11月に政府認定された松本京子さんを加えても、政府認定はまだ17人です。しかし、日本人拉致被害者は約100人以上はいると考えられます。安明進氏は15人の拉致被害者を目撃していますが、その中には名前の分からない人が多数います。また、金正日政治軍事大学には日本人教官が30人いると聞いています。よど号グループが20人拉致したとの証言もあります。曽我さん母娘のようにまったく拉致の情報がなかったケースもあり、同様のケースが多数あると思われます。