松木薫さんの思い出

松木薫さん

昭和28(1953)年6月13日生 熊本県
昭和55(1980)年5月頃
スペイン留学中に拉致(26歳)

斉藤文代さん(薫さんの姉)

平成17年1月13日、東京連続集会発言から要約

斉藤文代さん
救う会熊本のメンバーたちと署名活動をする斉藤文代さん

 父母が戦後、一生懸命二人とも共稼ぎしておりました。薫が生まれてからは、私が8つ下の薫をいつも連れて、どこへ行くにも一緒におんぶしたり引っ張って歩いたりして面倒を見てきましたので、私が母親みたいな役をさせていただきました。全然手がかからない弟でした。弟は私たちにとっては大事な宝物でした。父親は男の子がほしくてほしくて、「男の子が生まれるまで産んでくれ」と母に言ったらしいんです。女ばっかりでしたから。母は「そんなに産めない」と言ってたらしいんですけど、5人目に薫が生まれて、それはそれは父はとっても喜んで。父は子煩悩で優しい顔をしておりました。私が早く結婚しましたので、父親たちと一緒にいる時間がちょっと少なかったかな、と今思えば後悔しております。
 父は、「勉強したければ、父ちゃんはどんなに働いても苦にならないから、勉強していいよ。どんだけでも父ちゃん頑張るよ」と一生懸命言ってくれましたけど、私たちは高校を卒業したら父母のような温かい家族を夢見ていましたので、早く結婚して子どもを産んでと思っていましたから、高校で十分でした。薫は勉強が好きな子で、小さいときから一生懸命机に向かって本を読んだり勉強したりしておりました。それで薫は、父にお願いして大学も行かしていただいて。最後にスペインに行くときにも、勉強して帰って来たら父たちと一緒に暮らすから、と約束して行ったのです。薫は1年経ったら帰ってきたと思うんです。そしていろんな自分の人生計画を立てていたのだろうと、私は今も信じております。ですから、本当に今でも薫を拉致した人が憎いです。
 母は今も病院に入院しています。毎日時間がある限りは行きますけども、私が娘ということがですね、今は分からないんです。小泉さんが訪朝された時にですね、私はその日はつらくてとても病院に行けなくて、死亡という事を言われた時に行ってなくて、次の日に行ったんですね。そしたら「テレビを見た」って私に言うもんですから、私もすぐピンと来て、「何のこと。薫って名前はたくさんいるんだから、それは違う人よ」って私が言ったら、「そうかしら」って言うんですよ(蓮池薫さんと混同して)。私の名前すら分からないのに、母はいつも「薫、薫」って、小さい頃の写真をなでながら「早く帰っておいで」と言っています。薫が26歳の時までの記憶で母は止まってるわけです。そして、「薫はまだ若いからお肉がいいんじゃないですか。お肉料理をたくさん作ってあげてください」って言うんです。だから本当にそれを聞くとですね、つらくてつらくて、私は何とかして母に会わせてあげたい。「どんなことがあっても頑張るのよ」といつもいつも励ましております。母は薫が帰って来たら、玄関で「お帰りなさい」って迎えるんだと練習をしておりますので、どうかみなさん、力を貸してください。

松木信宏さん(薫さんの弟)

 私の家に兄がいなくなって2~3年後くらいからお巡りさんが来るようになったんですよね。「年寄りの家庭だから、年寄りとちっちゃい子どものいる家庭だから見回っている」と言って来たんです。その(北朝鮮から石岡さんが出した)手紙が来て、神戸の有本さんたちと連絡を取るようになってから初めて言ったのが、「松木さん、どっかから手紙が届きましたか、連絡が来ませんでしたか」。母親が「誰にも言ったらダメよ」というタイプで、「なんでかな」と思ったものです。もちろん兄の身に何か起こるかもしれないということもあったんでしょう。石岡家も有本家も、やるときは一緒にと、何となく暗黙の了解があったんですよね。表に出ることを控えようと。

松木信宏さん

 その当時よど号の妻たちのアパートに、兄と石岡さんが出入りしてたもんですから、一度ならず二度までも夕刊紙に、色仕掛けと書かれたことがありました。「松木さんとよど号の森順子っていうのは、肉体関係があったんですか」と、テレビのプロデューサーに聞かれたこともあります。放送はされませんでしたが、私なんか隣でぐっと息を飲み込むばかりで、「何ということを聞いてくれるんだ」と。うちの家では松木薫の名誉を傷つけられるようなことについては、どんなことをしてでも抗議するというポリシーがありました。うちの母親が泣くようなことをするやつは絶対に許さないぞ、と思っていました。