平野フミ子さん(るみ子さんの姉)
平成16年12月9日、東京連続集会発言から要約
るみ子は私たち増元家にとって太陽的存在でした。兄弟順で、私、信一という弟、そしてるみ子がいて、照明が一番下です。るみ子は、本当にもう、いつも明るくて。父親がとにかく厳しくて、私たちには本当に近づけない存在でした。でも、るみ子だけは父親に対して「とうちゃん、とうちゃん」と言ってですね。父親は営林署に勤めてました。鹿児島の営林署は屋久島の杉を運ぶ船を持ってましたので、2、3日おきに帰ってきておりました。しょっちゅういないんですけども、帰ってくるたんびに「とうちゃん、お帰り」と率先して言っていましたので、父は物凄くかわいがっていました。私たちは父が怖くて。何かというとすぐ怒るんですね。私たちは本当に「どうしてこんな父ちゃんと結婚したの」と母にいつも言うぐらいですね。4人の兄弟の中で一番可愛がってた、その妹がですね、北朝鮮に拉致されていった。本当に父親はどんな思いでいたのかと思うと…。
私たちは家族会が結成されるまで、妹の事に関してはタブーでした。そうしないと母親が本当にもう泣いてしまうし。そして世間にも何か知らないけどタブー。『家族』っていう本を見ると、皆、どこでも失踪した人のことには触れない、触れられたくないという気持ちです。安明進さんの、「めぐみちゃんを見た」という証言ですね。センセーショナルにですね、クローズアップされて。で、私たちはやっとこれで妹のことをこんなして皆さんの前で公に話せるという一条の光を見い出した思いでした。
父は本当に残念ながら、平成14年、10月15日に5人の方が帰っていらした翌々日に、肺がんで亡くなりました。本当にるみ子に会いたくて会いたくてたまらなかったと思います。どんなにしても父に生きていて欲しかったから、延命措置もさせました。うちの父は「そんなのはよか」と首を振りました。テレビの中で妹たちを紹介するのに、婚約間近とか解説がついてたんです。その時でも、病室のベッドの上で「まだおれは許しとらん」って言うんですね。それが、10月の11日、延命措置を受ける午前中にですね、父親は「結婚を許す」って言ってくれました。もうその時は自分でも死期が分かってたから、これだけは言って旅立ちたいと思ったんでしょうね、父親の責任として。
増元照明さん(るみ子さんの弟)
姉が中学の時、私がまだ小学校6年生くらいまでは、姉と一緒の布団で寝ていました。それくらい小さいときからの習慣で、姉と寝るのが全然抵抗なかった。中学の1年まではもしかしたら、寝てたかも知れない。私は身長130センチで、ホント可愛かったですから。特にるみ姉には、歳が近かったせいもあり、非常に甘えて育ちました。私は末っ子ですから、本当は甘えん坊なんです。今でこそこうやって偉そうにしてますけども。
中学になって、姉と同じ卓球部に入って、そして姉のカッコ良さを知りました。背がすらっとして、サウスポーで卓球するるみ姉を見てると、あぁかっこいいなぁと思って。私が大学入試に受かった時、非常に喜んでくれました。その当時、高卒の事務員の給料はたいした事ないと思うんですが、給料の半分くらいで時計を買って贈ってくれました。今はもうベルトがちぎれそうになって、これ以上触ると何時ちぎれるか分からない。あのベルトは願掛けみたいな物ですので、あまり触りたくないんです。それくらい私は大事にしております。
運命の1978年の8月12日。その前日の夜、姉が「明日、市川修一さんという人とデートに行く」と。その事を、フミ子とお袋と私と3人で、飯を食いながら聞いておりました。フミ子とお袋は多少話を知っていたようですけども、私は初めてだったものですからショックを受けたんです。家を出て行く姿は、皆さんご覧のサングラスをかけて赤いトレーナーを着た姿だったんです。
(冒頭のるみ子さんの顔写真は、拉致当日、市川修一さんと撮りあったもの。置き去りの車の中にあったカメラのフィルムを後で現像して判明)



