市川健一さん(修一さんの兄)
平成17年3月10日、東京連続集会発言から要約
「夕日を見に行ってくる。10時までには帰ってくるから」ということで、二人はね、楽しく出かけて行きました。当時修一は、私の妹夫婦のところに間借りをしておりました。その近くに住んでいたのが増元るみ子さんです。二人は交際して3か月ほどだったと思うんです。その時初めて遠乗り・ドライブで二人は出かけたんです。約束時間の前にそわそわそわそわし、本当にね、嬉しそうに「時間はまだか?まだか?」というような様子だったそうなんです。妹はあの時の修一の嬉しそうな顔を思い出してはいまだに涙を一杯ためて泣くんですよ。本当にるみ子さんという人が好きだったんじゃないですかね。
私と修一は9つの年の差があります。ですから修一が生まれた時、私は小学生。学校から帰ってくると修一を遊ばせるのが日課でした。修一をね、背負って遊び呆けていました。風呂にもね、私はよく入れておりましたから、服を脱がせる時も面倒くさくて、足で思い切って後ろから踏んだんですよ。そしたら手が抜けちゃって。それでもね、少し泣いただけで我慢強い子だったですよね。
修一は心根の優しい子で両親を大事にしておりました。親の言うことは弟は何でもハイハイと聞いて、色々と手伝いをしておりました。そのような弟がるみ子さんと忽然と消え、姿を消して。私が修一のことを思うとね、背負って遊ばせたそのことを思うともう涙が出てどうしようもないです。兄である私がこういう気持ちですからね、親としては本当に身を切られる思いだったと思います。弟の失踪の8月12日が来ても10月20日の誕生日が来ても、私の家では一切口には出しませんでした。口に出して言うとお袋が涙をいっぱい流し、悲しそうな顔をするもので、本当にね、長年、私の家は修一のことに関してはタブーになっておりました。
事件から17年後、1995年、確か11月の終わりだったと思います。韓国から国際電話が入ったんです。以前私の家に取材に来られたテレビ局の記者の方でした。「亡命した北朝鮮の元工作員・安明進さんに何枚かの行方不明者の写真を見せたところ、その中から、この男性は何回も目撃していると言った。おそらく修一さんは北朝鮮で生きている可能性が強いです」という電話をいただいたんです。私が電話を切ってから「お母さん、修一が北朝鮮で生きているよ」と言った途端、みるみる大きな粒の涙を流し「どこへおってもいい、元気でいてくれればそれでいい」。本当にね、私もびっくりするぐらいの大きな大声で泣いておりました。安明進さんの証言は、家族にとっては大きな光が、希望の光が差し込んだような思いがしました。
市川龍子さん(修一さんの義姉)
私の長男と、修一の姉で主人の妹の孝子の長男は、初節句が同時期だったんです。そのとき修一は、郵便局に臨時職員として働いていました。なけなしのお給料の中からですね、二人の甥っ子にガラス張りの大きな兜の置物をプレゼントしてくれたんです。修一にとっては本当に大変な出費だったと思います。それでも可愛い甥っ子のためにということで、修一がプレゼントしてくれました。また母にはですね、初ボーナスで大島紬をプレゼントしてくれたんです。母はこれには一度も袖を通しておりません。見ると涙が出るからって言って、ずっとタンスの中にしまってありました。今日、27年目にして初めて胸に抱いた時、もう母は嗚咽でした。修一を早く連れ戻してやらなきゃいけないという気持ちが、またずんずんと湧いてきました。
修一が北朝鮮にいると分かってから、母はですね、(昭和)60年だったですかね。 韓国の38度線の鉄柵の前でですね、あらん限りの声で叫びましたよ。「修一、どこにいるのー!顔を見せてー!声を聞かせてー」ってですね。


