寺越昭男さん(昭二さんの長男)
平成17年4月14日、東京連続集会発言から要約
事件の当時、私は中学校2年生で、弟の政男が小学校6年、三男の美津夫が小学校4年でした。小さかったせいもあるけども、本当に何で死んだんかと。何でこういうことになったんかという思いというのは、今までずっと持ち続けてきたことです。24年後に、突然北朝鮮から手紙が叔母のところへ来たわけですね。それまでは本当に死んだとばかり思ってたわけなんです。突然、外雄さんから手紙が来たということで、死んだ人間が生き返ったというような思い。でも一番最初の手紙には、父親のことは何も書いてないんです。「突然三人で北朝鮮で暮らすことになりました」と。その後、「外雄さんと武志は結婚して幸せに暮らしております」と。で、父のことは何も書いてないんです。三人で一緒に北朝鮮に来たのに何で父のことが書いてないのか。
2通目に、うちの親父は来て5年後に病気でなくなった、と。私らはその時に、ああやっぱり親父は死んでたか、と思いました。親父は心臓が悪くて、力仕事なんかすると心臓の発作で苦しくなったりして自分で注射をしていたんです。それから私らは、武志と日本にいる母親の友枝さんのことを見守っていました。北朝鮮の方に私らが目を向けるということは、親父はもういないと思うあきらめの気持ちと情けないという思いがあったんで、とにかく沈黙をして行こうと。武志の母親である友枝さんは、一生懸命運動しながら、外務省へ行ったり警察へ行ったり、あちこち苦労しているのを私らは見てました。
母親は、親父がいなくなってから私ら三人を育てるのに本当に苦労して。昭和42年に子宮筋腫の手術をした後、それが元で寝たり起きたりの生活になったんですね。それもあって経済的には本当に苦労してきました。
お袋は、「親父の遺骨を見るまでは死んだとは信じられん」ということで、本家で葬式は出したんですけども、葬式にも出なかった。その思いはやっぱり遺骨を見るまではということで、淡い期待は持ちながら2002年(平成14年)の2月に、最後はパーキンソン病で亡くなったんですね。その年というのは、私らにとっては、2月にお袋が亡くなり、9月に小泉訪朝、10月に武志が一時帰国した。これらが重なって私らは、声をあげよう、となった。声をあげるというのは、親父の骨を取り返して母親と一緒に墓に入れてあげたいという思い。それから事件の真相というのをはっきり知りたい。知る権利というのは私らにはあると思うし、お袋にもやっぱりそれを報告しなければいけない。
もし、親父が本当に安明進さんの証言通り殺されておったら、父親の無念というのを私らは晴らさにゃいかんと思う。いろんな思いから平成14年10月10日に声をあげさせていただいた。本当に恥ずかしい話なんですけども、その時は私らは家族会というのも知らなかったし、救う会も知らなかった。東京へ出てきてから驚くことばかり。
北野政男さん(昭二さんの次男)
親父は出稼ぎ漁師といいますか、1年に数か月しかいなかったんです。あとは大きい船で漁に出てて。38年以前の記憶は多分、4、5年しかないと思います。その4、5年の間の3、4か月が親父と一緒に暮らした日で、通算して1年くらいしかありません。
でも、生活した記憶、親父の特徴とか、親父が身に着けてたものは覚えております。お風呂へ三人で行って、体を流してもらって、親父のごつい手で頭をガーッとやられるのが痛いもんやから。ところが一番下の弟の美津夫は、親父の記憶は一切持っておりません。仮に、兄貴と私がゴルフボールかピンポン玉くらいの記憶を持っているとしますと、美津夫は全くなし。隣の家の嫁の友枝さんは、もう大人だからバレーボールかバスケットボールくらい。武志は、土、日の休みに親父と一緒に船に乗って何回か出かけたけど、船を買ったのも事故の半年くらい前ですから、そんなに親父とは会ってない。ですから、武志の思い出はビー玉かパチンコ玉くらい。ところが、事故後の武志は、親父と365日寝食を共にして5年間も一緒にいたという。その中に外雄さんもいたということですね。ということは、アドバルーンくらいの記憶を持っていなきゃならない。しかし、うちの親父がその場で銃殺されたり、おもりを付けて海に沈められたのであれば、親父の記憶はないわけです。武志の書いた『人情の海』という本にも、親父の生活感があふれるものは何もない。つまり、親父は北朝鮮には全く上陸していないという証拠です。しかし、誕生日が違う親父の墓、それから器用だった親父に教えてもらって作ったと、北朝鮮にはありそうにもないきれいな紙で作った折り紙を出してくる。遺骨は出してこないんじゃなくて出せないんです。それは二次被害です。

