曽我ひとみさん(ミヨシさんの娘)
平成17年5月12、東京連続集会発言から要約
私の母は本当に物静かな働き者でした。私が多分3歳か4歳くらいの時だったと思うんですけども、皇居へ勤労奉仕に行っていました。その時私が小さかったので、「一緒について行きたい」とわんわん泣いたこともありました。生活が貧しかったため、母は昼間は土建業って言うか、ヒューム管や油、セメントなどをいじって本当に大変な仕事をしておりました。夜帰ってきてからは12時くらいまで内職でざるを作っていました。そのざるを作るのも自分の休みの日に一人でリヤカーを引っ張って山に竹を切りに行って。それで一生懸命私たちを育ててくれました。
母はあまり怒ることがなくて、私たち姉妹に手をあげることもほとんどなく、本当に優しい優しい母でした。私たち姉妹には、自分がどんなに苦しくても辛くてもそういう顔を見せずに本当に優しく育ててくれました。
それと私が今手にはめている時計です。男物の時計なんですけど、私にしてみると、この26年間、時計というよりは私の母だと今でも思っています。ちょうどあの日、思い出したくもないあの日です。母と別れた日に、その日からずっと私の腕にはこの時計があります。10年少し経ったくらいで時計が動かないようになってしまいました。その後直すことができなかった時計も、私が日本に帰ってから動くようになりました。だから私はこの時計が直った時に思いました。絶対母もこの時計と同じように、どこかで絶対に元気で生きていると。
1978年、その日は土曜日でした。私はその頃看護学校に通っていて、毎週土曜日になると家に帰っていました。8月12日なのでお盆の支度をしたり、ちょっと忙しい時でした。夕方、もう7時は回っていましたけど、母と一緒に近所の雑貨屋さんに買い物に出かけました。その頃は街灯もほとんどなく、道路といってもあまり車も通らない。買い物を済ませて、1週間の話を母としながら二人で歩いていると、何か後ろに人の気配を感じたので、私が後ろを振り向きました。後ろには三人の男が横並びで付いてきていました。その時、何か気持ち悪いから、二人とも早足になって、少しでも早く家に帰ろうと歩き始めたその時でした。
後ろから、何か静かにぱーっと来たって感じで。そして、道路の横にあった木の下に私と母は引きずり込まれてしまいました。その後は口、手足を縛られて袋に入れられました。そして船に乗せられ、着いたのが北朝鮮でした。もちろん行った当初はその地名も分かりませんでした。
船の中では母の気配は感じてないんですけど、下手な日本語で話をしている女性がいました。私に対してじゃないです。私がいた場所よりもちょっと離れた場所に母がいたと思うんです。小さい船に最初乗せられてしばらく行って、もっと大きな船に移されて、小さい部屋に入れられて、そこで袋から出してもらった。怖かったですね。自分でも何が何だか全然分からないっていうか、どうなってるんだろう、ただただ怖い。どこに行くんだろう、誰なんだろう、そのことだけを必死に考えてました。勉強しに行くんだと、片言の日本語で言われました。そして袋から出された時に、お母さんは佐渡にいる、と。
清津に着いたのが夕方5時くらいでした。日付も付いてる時計だったんで、ああもう1日が過ぎてるんだな、と。金日成の肖像画のある招待所に入れられました。「この人知ってるか」と言われたので、「こんな人見たことありません」って。「中国ですか」と聞きました。「朝鮮だ」と言うので、「そんな国あったんですか」と問いかけると、向こうは半分怒り出したような感じでした。夜行列車で平壌に連れて行かれ、15日の朝6時頃着きました。そこに17日まで一人でいて、18日に横田めぐみさんと一緒になりました。
めぐみさんと2、3か月離れた時期に、母に手紙を書きましたけども、母の許には着いていないと思います。母は佐渡にいると言われていたので、もう、そう思うしかなかった。日本にいるっていう母も、日本に来て見ればいませんでした。24年間私はその嘘を信じていたということです。結婚してからは子どもたちができたりして、一人でいる時よりは気持ちも少し和らいできました。もう子どももできたんだから、ここでずっと住むしかないのかな、という気持ちはありましたけど、でもその半面、絶対いつかは日本に帰れると信じていました。
最後まで嘘っていうのは隠しきれないっていうか、ごまかしがきかない。それだったらお互いに信じて本当のことを言った方がいいんじゃないかなと考えて、子どもたちに、拉致されてきたことをゆっくりと話しました。そしたら子どもたちも、子どもたちなりに分かってくれて、今、だからこそ絆が深まったのかなと思っています。だんだん時間が過ぎて、大きくなっていろんな考えをすれば、誰が間違っているのかっていうのは、私が言わなくても子どもたちは分かってくれました。

