有本嘉代子さん(恵子さんの母)
平成17年2月10日、東京連続集会発言から要約
おぎゃーっと産まれて、赤ん坊の時分からそんなにわ~わ~と泣かない。本当に育てやすくて、全然手がかからなかった。兄弟は、女の子5人男の子1人の6人で、その3番目です。非常におとなしい、聞き分けのいい、本当に手のかからない子だったんですけれども、最後に一番手がかかって。本当にどうしたらいいのかと思って、毎日思い悩んでおります。
主人の妹(義妹)と恵子は偶然にも生まれた月日が一緒なんです。誕生日が一緒だからと言うわけじゃないんですけれども、たくさんいる中で特に恵子が可愛かったみたいです。1年2か月ぐらいですぐに次の子ができたんです。それで、義妹がずっと抱っこして寝てくれたんですね。そんなんで、恵子のことは義妹の方が私以上に良く知ってると思います。高校に入りました時点で、英語が小学校の時分からわりと好きで、ちょっと昔習いに行ったこともあります。たまたまその学校が義妹が買いましたマンションのすぐ端にあったので、いつも夜間のときだけは迎えに行ってくれてたんです。そしたら「そないするのが面倒だから、とにかくずっと家におって一緒に暮らそう」ということになって、高校の時点から私どもの手から離れて、義妹と一緒に暮らしました。
1982年に神戸市立外語大学の2部を卒業しました。お昼は、自分でアルバイトをしていました。ですから小さい時分からそんなにお金も無駄に使わないし、きちっと自分のことは自分でするような子どもでしたから、お金もきっちり貯めてたんですね。自分が外国へ行くと言うたんも事後承諾で、私ども全然お金出さなかったんです。全部申し込んで、何もかも手続きを済ましてて、事後承諾みたいに。義妹はやりたくなかったから、「親が止めてくれると思ってた」といまだに怒ってるんですけども、止まらなかったんです。いつでも素直に言うことを聞くのに、これに関しては一歩も譲らなかったんです。泣いて「行かしてくれ」て言うたんですね。
最初は半年という約束だったものですから、半年くらいだったらすぐ済むわという感じで、半年経ったらすぐ帰ってらっしゃいよって言うたんですけれど。手紙は本当にこまめに、月に最低でも1回、多いときは2回、3回と来てました。やっと翌年の1983年の6月末に、「もう帰るわ」と手紙が来たんです。私もやれやれ思いまして。そしたら「夏の2か月くらいは旅行して帰るから」という手紙でした。すぐに帰ってくればいいのにと思って、私もすぐに手紙出したんですけど、行き違いになってたんじゃないかなと思います。その後、「8月9日に帰る」と手紙が来たもんですから、その時はああ良かった、やれやれと思ったんですが。義妹と一緒に迎えに行こうというつもりだったんですけど、義妹は、ちょっと私は気になることがあるからと。あの人はピンと霊感が働くことがあるんですね。「とにかくいっぺん伊丹に電話してみる」って空港に電話してみたんです。「その方ね、キャンセルしておられますよ」って、そない言われたんですね。それを今も覚えておりますが、キャンセルした人が横文字でしたわ。「どうしてキャンセルしたんだろう」と私たちもドキッとしました。
その日のうちに電報が来ました。これは多分よど号関係の人が出したんだと思います。後になって分かったんですけれども、西側の警察の方が、キム・ユウチョルいう北朝鮮の工作員をずっとチェックしてたんですね。たまたまその人をコペンハーゲンの空港で見つけて写真を撮ったんですって。そのときに恵子が端に写っていたんです。

