田口八重子さんの思い出

田口八重子さんの思い出

昭和30(1955)年8月10日生 埼玉県
昭和53(1978)年6月頃、拉致(22歳)

飯塚繁雄さん(八重子さんの兄)

平成16年11月11日、東京連続集会発言から要約

飯塚繁雄さんと米国国防総省のイングランド副長官
飯塚繁雄さん(左)に対し、米国国防総省のイングランド
副長官(右)は「皆様の良き友人がいることを忘れないで
いてほしい」と支援を約束。平成18年4月26日、国防総省にて

 私たちは7人兄弟で、八重子は一番下の妹で私とは17歳違います。八重子が子供の頃はもう私は就職していて、なかなか八重子とじっくり話をする機会がなかったんです。一番八重子をかわいがっていたのは親父でした。いつもひざの上にだっこしていました。金賢姫さんの本にもそういう思い出が書かれています。
 高校は中退という形になってしまいましたが、運動もやっていて活発な子でした。性格的には負けず嫌いで、何としても自分で生活を築いていくんだという強い意志がありました。逆に言うとそれが災いになったのかもしれません。
 また自分の手で子どもを育てていくという強い意志で、一人で独立してアパートを借りて生活を営んでいました。あの頃、女手一つで子どもを育てていくのは大変だったと思います。従って、仕事も飲食店関係の仕事にならざるをえなかった。2年弱勤めていましたが、当時、私たちの所に妹が来て、子どもを預かってくれということもありました。妻が、家で面倒見るから昼間の仕事につきなさいと意見したんですが、結局そうならなかった。失踪してからも、まさか拉致とは考えてもいませんでした。そのうち帰ってくるだろうと思っていましたが、日にちが経つにつれて、これは何か事件に巻き込まれたと思いました。あの頃は夢中に過ごしてきたという感じですね。
 昭和62年(1987年)、北の謀略による大韓航空機爆破事件があり、金賢姫の証言によって、金賢姫を教育した日本人女性がおり、それはこういう人だとの向こうの情報で10名くらいに絞ったようです。2回目の調査団が10名の写真を持って行ったら、うちの妹の写真を指差して、「この人です」と。それで警察が断定しました。自殺しようとした金賢姫が命をとりとめなかったら未だに田口八重子のことは分からないということです。お蔭様でという気持ちです。夜になると、「自分の子どもは何歳になったかしらと言っていた」と金賢姫さんの本にあります。きっと兄たちが面倒を見てくれているだろうと思っていると思います。当時1歳の赤ちゃんが、こんなに大きくなるまで解決できないというのが悲劇だと思います。侘しさと怒りがごちゃ混ぜになった気分です。もし八重子が飛行機のタラップを降りてきたら「ごめんなさい」と言うつもりです。こんなに長く助けられなくて。

飯塚耕一郎さん(八重子さんの息子)

飯塚耕一郎さん

 田口八重子の長男で、飯塚繁雄の次男である飯塚耕一郎です。今日は、田口八重子さんの人柄や当時のことを話す場ですが、私は親戚一同の中で思い出が一番少ないなと改めて思いました。この事実はおかしい話ですよね。27年生きてきて、田口八重子さんについて何かしゃべろと言われても、正直、もどかしい気持ちです。母親とも思えないじゃないですか。母親というと自分の中で偽りになってしまうという部分と、本当にそう思いたいという部分とが混沌としています。 会社に入りたてで海外研修に行くという時、戸籍謄本を見ると続柄が養子になっているんです。分け隔てなく育てられましたので上の3人は本当の兄弟と思っていました。心の平静を保つために1週間くらい時間を置いて実家に帰り、親父に、なぜ養子と書いてあるのかと聞いた時、しらふのままでは話せないということでした。そこで近くの寿司屋に行って聞きました。実の母親が連れ去られ、大韓航空機爆破事件の犯人の教育係をやっていたと聞きました。その後ずーっとどうしようもないもどかしさに捕われ続けました。お母さんとも思えないが何とかしてあげたいという気持ちですね。私ができることは、彼女が帰ってきた時に、私が背筋を伸ばした大人だと思われるようになりたいということでした。それしかあなたの子どもなんだよとアピールできないのかなと。北朝鮮にも負けない、田口八重子さんにも認めてもらえるような生き方をすべきかなと思いました。そして彼女としばらく過ごすうちに、自然に「お母さん」と言えるようになりたいと思います。