横田滋さん(めぐみさんの父)
平成16年10月14日、東京連続集会発言から要約
めぐみは東京オリンピックが始まる直前の昭和39年10月5日に名古屋で生まれました。非常に大きく、金太郎さんのような女の子でした。1歳ちょっとで東京に転勤になり、そこで6年間過ごしました。小さいときから本が大好きで、童話の本を読み聞かせるとすぐに覚えてしまいました。昭和47年に広島に転校しました。広島時代は我々にとって一番幸せな時代で、家族でいろんな所に旅行しました。絵がとても好きで、上手なイラストを描き、それを友達と交換していました。
小学校6年生1学期が修了した時、新潟に転校になりました。2学期からでしたが、その年の図書館で図書を借りた冊数が学年で一番で、少女小説からスリラーまで何でも読んでいました。卒業後は、近くにある寄居中学校に入学しました。入学式は、直前に風疹にかかって欠席。始業式の前で桜が咲いている頃、制服を着ためぐみの記念写真を撮りました。北朝鮮に拉致された時の制服、持ち物は、あの時の写真と同じで、あの制服を着て、靴も鞄も同じ物です。
めぐみがいなくなる前日が私の誕生日で、その時めぐみが櫛をプレゼントしてくれました。おしゃれに気を遣うようになったので、お父さんもきちんとしてほしいという意味でプレゼントしてくれたのだと思います。めぐみは中学に入って部活動を選ぶ時、音楽をやるか、絵を描いたりするのかと思ったら、意外にもバドミントン部に入りました。新潟市の強化選手に選ばれ、非常に名誉なことですが、女子のバドミントン部は全国的に高い水準で、自分が今までの学校の成績を維持できるかと心配して、「どうしよう、どうしよう」と悩んでいました。
横田早紀江さん(めぐみさんの母)
私は、最初男の子がいいと思っていました。ところが大きな女の子が生まれました。生まれた時も「拓也」という名前しか考えていなかったんです。用意した名前が無く、早くつけなきゃと思って、ひらがなで、かわいい名前にしました。「めぐみ」というのはとても良い意味があるので「めぐみ」にし、めぐみは、いつも野原を駆け回っているイメージが強い女の子で、元気いっぱい庭で遊んでいました。
めぐみの着る物は、たいてい私が着ていた物を利用してワンピースやスカート、刺繍をしたブラウスを作っていました。写真展の中に、萩に行った時に4人で歩いているオレンジ色の服が出ていますが、あれは旅行に行く前に新しい布を買ってきて、一生懸命作ってあげたものです。
病気はほとんどしませんでしたが、やんちゃなので、けがはよくしました。
そういう子だったので、このことが起きた時は物凄い衝撃で、本当に死んでしまいたいと思いました。こんなに苦しい思いをしなければならない人生なのか、どうして見つからないのかと悩みました。私は海も桜の花も大好き、雪もそれなりに好きだったのですが、あの日以降、新潟の景色を思い出すだけで、海も雪も桜吹雪も残酷な思い出になってしまいました。北朝鮮に生きていたということは大変な喜びでした。


